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クラシックを食い破る南米人―ピアソラ《タンゴ・ゼロ・アワー》

11 3月

アストル・ピアソラ《タンゴ・ゼロ・アワー》
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 このタイトル、どこかでご記憶があるのではないか。そう、この連載の第1回で僕は伊福部昭について書いたのだが、そのときのタイトルが「クラシックを食い破る日本人」だった。「音楽巴塾」の連載も今回が最終回、タイトルがループして完結である。しかし、当然のことながら、同じ話ではない。 

 水戸芸術館でクラシックの普及活動をしながら、僕の中にはこんな思いがあった。「クラシック」はたしかに、他の音楽とは違う。だが特権的な存在ではなく、単に「違う」というだけだ。見かけの違いの奥には、地下水流のように、他ジャンルの音楽と通底している要素がたくさんある。その水流が往き来することで、互いが豊かになる。逆に言うなら、水流を塞いだら、互いの進歩はきっとない。それは、創り手のみならず、受け手も同じ。だから、「クラシック」に流れ込んでくる地下水流を実感させてくれるような、あるいは逆に「クラシック」から流れ込むものが活性化の一要因となっているような、他ジャンルの音楽を積極的に仕掛け、僕ら聴き手の間口を広げていきたい。そんな思いから、「越境音楽」のシリーズ(特にシリーズ名は出さなかったが)を始め、スティーヴ・ライヒを皮切りに、リッチー・バイラーク、シュテファン・フッソング、矢野顕子、さらにタラフ・ドゥ・ハイドゥークスにはじまるワールド・ミュージック系の音楽家、等々を招聘し、最終的には渋さ知らズオーケストラに至り、平野公崇×山下洋輔×西山まりえという文字通りの異種格闘技戦で締めくくった、という話は別のところにも書いたけれども。で、今は『CDジャーナル』で、『クラシック異種格闘技』なる連載を書いているわけだ。

 とはいえ実は水戸時代、どうしてもうまく企画に落としこめなかった人がいる。現代タンゴの巨匠、アストル・ピアソラ(1921~1992)だ。そう、アルゼンチンに生まれ、少年時代にニューヨークの空気を呼吸し、帰郷してバンドネオン演奏&タンゴ作曲を始めるものの状況に飽き足らず、渡欧して名教師ナディア・ブーランジェにアカデミックな作曲を師事するも、師に自分のソウル・ミュージックはタンゴなのだ、と教えられ、再度帰郷し、従来のタンゴを、クラシック、現代音楽、ジャズの要素を大胆に導入した音楽性で革命的に刷新し、激しい毀誉褒貶を一身に集めながらも最終的には現代タンゴそのものの代名詞となり、さらにはタンゴそのものを現代音楽にしてしまい、クラシックのアーティストも強く魅了し(クレーメル、ロストロポーヴィチ、ヨー・ヨー・マ、福田進一、バレンボイム、等々…)、高まりゆく名声の中で惜しくも世を去った、あのピアソラである(以上、ピアソラ一文紹介終了。ふうう…)

 ピアソラは、没後急激に、特にクラシック界で大いに称揚され、ヨー・ヨー・マの爆発的に売れたアルバムを始め、とてつもなく多くのカヴァー・アルバムが製作された。クラシックには、こういうことが時々起こる。ピアソラの前はグレゴリオ聖歌ブームとか、グレツキの交響曲第3番の異常なヒット(これは日本ではそれほどでもなかったか)があったし、ほかにも米良美一やフジコ・ヘミングの大人気とか、最近では『のだめカンタービレ』の大ブームとか、今だったら佐村河内守の交響曲第1番かな?ともあれ、「現象」としての超ブームがいきなり巻き起こり、残念ながらしばしばほとんど痕跡を残さず消えてゆく。いや、個々のブームの内容を問うているのではない。あっという間に対象が消費し尽くされ、それが真の受容に結びつく契機となることは異様に少なく、やがて来る次の、まったく無関係なブームにとって替わられる…という構造が問題なのだ。僕は『のだめ』の大ファンであり(あくまで原作のね、念のため)、ブームになる前に毎日新聞の文化面で『のだめ』について書かせていただいたのは密かな誇りだが、あのメディアミックスによる大ブームの時にはなかなか微妙な気分で、ある芸術館のお客様(必ずしも熱烈な音楽ファンからではない方)から「なぜ“のだめ”関連のコンサートをやらないのか」と詰問され、猛烈な勢いで反論してドン引きされてしまったことがある。すみません、若かったんです。

 このクラシックにおける「ブーム」の問題にのめりこむとそれだけで数回分の話なので、本題に戻る。そういうわけで異常な大ブームだったピアソラは自分としては水戸の企画になかなか入れづらく、機会を失ってしまったことが今でも心残りではある。とはいえ最後に、水戸国際交流協会で行っていた講座シリーズの最終回でピアソラを取り上げたし、今や同僚の企画には、自然とピアソラの曲がプログラムに取り上げられているし、それで良しとしよう。

 ブームは沈静化したが、ピアソラの音楽はレパートリーとして定着した。しかしながら、それでも僕の中で、「クラシックにおけるピアソラ」はうまく落ち着き場所を見いだせなかった。なぜか。

 答えは簡単。「本人の演奏」があまりに凄すぎるのである。

 ピアソラは、基本的には自分の楽団のために作品を書く(むろん委嘱されて他の演奏家のために書いたり、大規模なオーケストラ作品を書いたりすることもあるが)。そのレパートリーは基本、彼のバンドネオンや、彼が信頼し、彼の厳しい審美眼とリハーサルをくぐり抜けた凄腕メンバーによって再現されてゆく。楽曲の構造は、無調に踏みこんだりフーガを入れたり組曲形式にしたり、タンゴとしてはとてつもなく大胆だが、実際には三部形式やロンド形式のように比較的明瞭な形が多く、むしろ即興を組み入れるスペースをふんだんに残しているところが肝だ。ピアソラたちはそこに火のようなアドリブ・プレイを注ぎこんでゆくし、そもそもテーマ・メロディ演奏の部分からその情感の激しさ、狂おしさは尋常ではなく、演奏の度にその表情は毎回違うと言って過言ではない。

 つまり、ピアソラの音楽をクラシック視点から見るなら、かつてバロック期には普通だったが、古典派、ロマン派と時代が下るにつれだんだん分離していった「作曲と演奏の一致」が蘇っている、ということになる。前回、ジャズ篇で三森さんがキース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』で書いたこととリンクしてくるのだが、ピアソラ音楽の楽譜は、演奏者によって、何倍もの表現力と説得力を与えられることを待っている。

 それを200%、300%とふくらませていくことができるという点に於いて、僕はピアソラ自身の演奏を上回るものがイメージしにくかった。もっとはっきり言うならば、本人の演奏原理主義者と言ってもいい。実際に生で体験することはできなかったといえ、高校生のときにテレビで放映された彼らの来日公演ライヴに「なんだこれは!」と驚愕して魂を奪われて以来、彼らのライヴ・アルバムやDVDでの、その場に居合わせる者すべてを焼き尽してしまうような激しいパフォーマンスに心酔しつくし、他の演奏のどれを聴いても満足できないという状態だった。要は、ジミ・ヘンドリックスやジョン・コルトレーンの音楽のように、「一代限りで継承不能(影響はあったとしても)」と考えていたのだ。

 だが最近、20世紀後半の最高のヴァイオリニストであるギドン・クレーメルが、1990年代中頃から2000年代中旬まで録音したピアソラ・アルバムを集成した『クレーメル・プレイズ・ピアソラ・ボックス』を聴いて、考えをあらためた。ここには、最高のピアソラ解釈のひとつがぎっしり詰まっている。クレーメルはピアソラのクラシック側での評価を高めた立役者の重要な一人だが、彼とその仲間たちの演奏はなんとなく流行りに乗ってピアソラを弾いてみた、といった感じの安易なものとは百万光年離れており、その音楽言語と精神に深く共感し、没入と鋭利な批評性(単なるカヴァー・アルバムにせず、他の現代作曲家に委嘱したタンゴ作品を組み合わせたり、ヴィヴァルディと交互に奏したりする)が両立した、とてつもないレヴェルに達していた。それは、タンゴのノリをそのまま100%体現できている、ということとは違う。クレーメルのヴァイオリンは、ピアソラの音楽が抱えている「ノイズ」や「暗闇」に鋭く反応している。あの、一歩間違えれば情緒に溺れてしまいそうなメロディたちが、「ノイズ」や「暗闇」の存在によってかえって神々しいまでにその輝きを取り戻すのだ。

 クレーメルを聴き、そして他のピアソラ・カヴァー・アルバムを何枚か聴く中で、やっと僕の中でピアソラの場所が見えてきた。ピアソラとは、ヨハン・シュトラウス父子や、ガーシュウィンの系譜に連なる存在なのだと。

 ヨハン・シュトラウス父子は言うまでもなく19世紀のウィンナ・ワルツの大成者だが、「ニュー・イヤー・コンサート」で権威づけされた近年の豪華なワルツの装いとは異なり、元来、男女がくっついて踊るワルツはもっと「不道徳」なもので、ウィーン会議以降の反動体制においてはむしろ「危険」な存在だった(このあたりは、ニコラウス・アーノンクールが昨年出した傑作アルバム『ワルツの革命』を聴けばわかる)。その不道徳なワルツを、彼らは洗練の極みに押し上げ、欧米を席巻した。またガーシュウィンは言うまでもなく初期のジャズと、クラシックの領域との間に橋をかけた存在だ。

 彼らの音楽は今ではすっかりポピュラーなものとして親しまれているが、誕生した当時はセンセーショナルで、アカデミックなクラシックの世界を震撼させるに十分だった。そして、心あるクラシックの作曲家たちは、決して彼らの音楽を蔑視したりせず、高く評価していた。たとえばヨハン・シュトラウス2世のワルツは、ブラームスがシュトラウスの娘に揮毫を求められた時に《美しく青きドナウ》の一節を記し「残念ながらあなたのブラームスの作にあらず」と敬意を評したくらい、あの気難しい作曲家を脱帽させていた。あるいはガーシュウィンは、ラヴェルに学ぼうとした時、「あなたは一流のガーシュウィンなんだから、わざわざ二流のラヴェルになる必要はありませんよ」と諭された。この連載で紹介したラヴェルのピアノ協奏曲は、ガーシュウィンの《ラプソディ・イン・ブルー》等の存在なくしては考えられないだろう。それに、十二音技法の作曲家シェーンベルク(20世紀の気難しい作曲家No.1?)もガーシュウィンの音楽を高く評価していた。

 彼らはいずれも、人々の生活に密着した音楽と向かい合い、そのエッセンスを力強く鍛え上げ、高度な技法の創造にいそしむクラシックの世界に風穴を開け、新しい活力を吹き込んだ。そして、音楽が人々の日常から離れてはいけない、と警告し続けている。

 ピアソラもそうだ。ピアソラの音楽から聴こえてくるのは、20世紀後半の都市生活者の孤独や苦悩であり、矛盾と悲劇に彩られた現代社会の中で、それでも生きてゆく、という決意である。だからこそ、クラシックの世界は、そういうものを取り落としていたことに気づき、ピアソラに熱狂したのだ。ロックやジャズのアーティストからも、ユニークなピアソラ解釈が生まれつつある。この音楽は、たぶんなくならない。どのような解釈によって変貌しようとも、その本質は、きっと赤々と燃えたぎり、移り気なブームとは無縁に生き続けてゆくだろう。だから、いろんなカヴァーが現れていいのだ。いつでも戻ってゆける、「本人達の演奏」が残されているのだから…。

 というわけで、解釈のすぐれた例としてクレーメルのアルバムを挙げても良いのだけれど、やはりここは原点にして聖典たるご本人の演奏にまず敬意を評することにしよう。さて何を選ぶか。いろいろ考えたが、やはり、アルバムとしての完成度において、ファースト・チョイスは彼の「キンテート・タンゴ・ヌエボ(新タンゴ五重奏団)」による1986年の『タンゴ・ゼロ・アワー』ということにならざるを得まい。晩年の作だが、ピアソラはこのアルバムから始まる、アメリカン・クラーヴェ・レーベルへの三部作(続く2作は『ラフ・ダンサー・アンド・ザ・シクリカル・ナイト』『ラ・カモーラ』)によって、いわばひとつの集大成を記した。ピアソラ自身のバンドネオンはもちろん、ヴァイオリンのフェルナンド・スアレス=パス、ピアノのパブロ・シーグレル、ギターのオラシオ・マルビチーノ、コントラバスのエクトル・コンソーレという強力なメンバーが一体となったこの真夜中のタンゴ交響詩は、ピアソラの音楽をこれから聴く方にとって絶対に避けては通れない。最初の《タンゲディアⅢ》、冒頭のメンバーたちによる「タンゴ、トラヘディア(悲劇)、コメディア(喜劇)、キロンボ(娼家、混乱)」という叫びから静々とテーマに入るや否や即座にエネルギー爆発させる五重奏団に打ちのめされたら、あとはもうノン・ストップでタンゴの「ゼロ時間」に身も心も縛りつけられるしかない。収録曲は旧作から近作までいずれも再演で、しかしそれだからこそ練りに練ったアンサンブルと編曲で「決定的な一枚」を創ってやるというピアソラの決意が伝わってくる。プロデューサーのキップ・ハンラハンはこれまた越境的な天才ミュージシャンだが、心から尊敬するピアソラのために最高のコンディションを準備し、低音を聴かせた重厚なサウンドで新五重奏団の熱気と洗練をとらえた(SACDハイブリッドでのリイシュー盤は最高だ)。しかも、スタジオ・アルバムでありながらライヴのような熱気がこのアルバムにはみなぎっているのだ。ライヴだったら暴風のような『レジーナ劇場のアストル・ピアソラ1970』がまずお勧めだし、DVD『ライヴ・イン・モントリオール』も凄まじい。ピアソラはこうしたライヴ・アルバムに比べて、自分のスタジオ・アルバムは冷たすぎると感じていた(決してそんなことはないと思うが)。だが、『タンゴ・ゼロ・アワー』にはピアソラ自身も納得しただろう“ライヴ”がある。聴衆を前にしての熱狂とは違うが、スタジオの中で、ミュージシャンたちとプロデューサーが、新しい音楽の生まれる瞬間を興奮と共に体感している、その“ライヴ”な息遣いが。

 ピアソラはアルバムに記している。「これは紛れもなく、私がこれまでの生涯で作り得た最高のレコードだ。我々はこのレコードに魂を捧げた。孫たちに聴かせて、『これが私たちが命をそそいだレコードだよ。こんなに複雑なことをやっていたんだよ』と言えるレコードだ」その言葉に、偽りはない。これ以上はもう詳細に書かない。あとはぜひ、あなたの耳と心と身体で「体感」してほしい。そこには、これはタンゴか、クラシックか、それともジャズなのか、といった問いなどどうでもよくなる、「音楽」が、「生命」が、ただひたすら、ある。

 1年間に及んだこの連載もいよいよ大団円です。このような機会を与えてくださった山梨青年工業会、そして同僚としていつも大いなる刺激をくださった三森さんと田畑さんに心からの感謝を捧げます。まだまだ紹介したい作曲家はたくさんいますが、まずは一区切り。ここで取り上げた12人の音楽家との出会いが、連載につきあってくださった読者である皆様にとって、「クラシックもなかなか面白そうだ、少しはまってみよう」と思われるきっかけとなれば嬉しいです。

Text by 矢澤孝樹

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アストル・ピアソラ:タンゴ:ゼロ・アワー

1. タンゲディア3
2. 天使のミロンガ
3. キンテートのためのコンチェルト
4. ミロンガ・ロカ
5. ミケランジェロ’70
6. コントラバヒシモ
7. ムムキ

演奏:キンテート・タンゴ・ヌエボ(新タンゴ五重奏団)

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投稿者: : 2013年3月11日 投稿先 1.Classic(クラシック)

 

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