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生命の森のオペラ~ヤナーチェク:オペラ《利口な女狐の物語》

11 2月

ヤナーチェク:オペラ「利口な女狐の物語」
» ヤナーチェク:オペラ「利口な女狐の物語」

[Part1:オペラ座にて]

「クラシック音楽をこれから聴こう」という方にとって、もっともハードルが高い曲種はなんだろう? 何の根拠もないが、僕とだいたい同世代、あるいはより若い方々にとって、それはオペラではないだろうか、とずっと思っていた。 

予想される(そして、直接耳に入る)イメージはだいたい次のようなものだ。100年も200年もそれ以上も前の、しばしば遠いギリシャ神話や中世の伝説まで題材とした、現代の我々にとっておよそ縁遠い世界を舞台にした音楽コスプレ舞台劇。延々と名人芸を披露する大アリアによって10分も恋の告白が行われ、劇の進行は止まってばかり。その間に告白されている女は逃げるだろう、普通! なぜ死に瀕してあんなに延々と歌い続けられるんだ。お前は『アストロ球団』か(マニアックなネタですみません)! なぜ肺病病みでやせ衰えて死んでゆくヒロインなのに、それを演じている歌手は…(以下自粛)。何を隠そう、隠しても仕方ないが、僕もオペラを「楽しめる」ようになるのはクラシックの全曲種の中で最後だったことを告白しよう。その障害となった一因に、上記のような先入観イメージの数々がないとは言い切れないと認めざるを得ないこともまたやぶさかではない。ああ歯切れが悪い。

でも今は、確信を持って言える。オペラはすばらしい!オペラは楽しい!むろん、一流の作品、すぐれた舞台、演奏であることが前提だが、それは他のジャンルでも同じことだ(ただ実演を楽しむなら時間とお金の余裕があったほうがいいことは確かだろうけれど)。

オペラは、1600年前後に誕生してすでに400年を超える歴史を持つ、偉大な音楽劇。文学、音楽、演出、美術が一体となった総合芸術にしてエンタテインメント! 劇の進行を妨げる、と思われてしまいがちなアリアによく耳を傾ければ、そこにどれほどの起伏に富んだ感情と、それを表現する多彩な作曲技術が盛り込まれているか気づく。気づくことができれば、体感時間は変わる。その「長さ」は至福の時間となる。映画や演劇を観るときに僕らが現実とは違う「映画内現実」「演劇内現実」を苦もなく生きることができるように、「オペラ内現実」にいったんはまりさえすれば、前述のようなネガティヴ・イメージはたちまち肯定的なものへと反転する。だいたい日本だって、歌舞伎とか能とか、その「舞台上の現実」が「日常の現実」とは際立って離れた舞台芸術があり、それを僕たちは何百年も楽しんできたのだから、オペラにはまることだって決して難しくはないはずだ。むしろ、機能和声と西洋の文物に慣れきった(それはそれで問題だが)僕たちにとって、うっかりすれば歌舞伎や能よりも親しみやすいかもしれないのだ。それもそれで問題だが。

もっとも最近は、こんなことを書くまでもないようだ。上述のようなオペラのイメージはだいぶ払拭され、コアなクラシック・ファンと言うわけではないにもかかわらず「オペラが大好きで」という人をしばしばお見かけする。休暇をとってヨーロッパの歌劇場に聴きに行く、という方もいらっしゃる。

理由はいくつかあるだろう。メディアがオペラやオペラ歌手を「素敵なもの」「ちょっと贅沢なお洒落」的なイメージで取り上げることが多くなり、「三大テノール」のようにとてつもないコマーシャルな成功を収めた企画もそれを後押しした。DVDのようなメディアの進化により、世界の一流舞台を、気軽に家庭で楽しめるようになった。METライヴ・ビューイングのような、映画館を使ったすぐれものの企画もある。

しかし最大の要因は、オペラ自体が、演出、演奏、ヴィジュアル等々さまざまな要素の「現代化」を果たしたからだろう。まず演出は、原作の歴史背景を重視した演出から、舞台を現代や違う設定に読み替えた、いわゆる「現代的」演出がすっかり一般的となった(まあこれは、歴史的衣装や舞台装置には金がかかるというシヴィアな事情もあるようだけれど)。たとえばデュマの時代のパリを舞台にした娼婦の物語である《椿姫》を、パパラッチに付きまとわれるTV時代のスターの話にしたり、旧約聖書のエピソードである《サロメ》をファシズムの支配するイタリアに置き替えたり、といった具合だ。特に神話伝説をベースにしたものがほとんどであるバロック時代のオペラは、読み替えに自由が利きやすく、斬新で大胆な演出が面白いくらいピタリとはまったりする。無論、やりすぎで猛批判される例も多いし、最近は読み替え演出も飽和状態の気はあるけれど、前述のようなイメージの数々によってオペラに抵抗感のある方ほど、意外にこうした演出によってかえってオペラへの抵抗感が払拭される傾向はあると思う。当然、歌手陣もそれに対応することを求められるわけで、最近のスター歌手ときたら男女問わずまあみんなモデルのような容姿と体型だし、舞台上でも踊ったり走ったり寝転んだり、とてつもない演技力である。こうした傾向にメディアが敏感に反応したからか、逆にメディアがそれを後押ししたのか、おそらくはその両方なのだろうけれども、いずれにせよ、オペラに抵抗のある方こそ「今は楽しみ時ですよ」と申し上げてよいのではないかと思う。そこにいったんはまれば、過去の名舞台、綺羅星のごとく輝く名歌手たちとの出会いも待っている。

とはいえこの『音楽巴塾』では「作品」を選びご紹介することが課題なので、オペラが総合芸術であることを承知の上で、「音楽」に焦点を当てて選びたい。そうなると、半自伝的なこの連載では、僕が「最初に感動したオペラ」を選ぶことになる。僕は前述のように、自分自身が長いこと「オペラ食わず嫌い」な人間だったので、むしろ先入観を覆してくれるような作品からオペラに入って行った。そうなると、どうしても20世紀の作品が先行した。たとえばドビュッシー《ペレアスとメリザンド》、ラヴェル《子どもと魔法》、プロコフィエフ《炎の天使》、ストラヴィンスキー《放蕩者のなりゆき》、ガーシュウィン《ポーギーとベス》、ベルク《ヴォツェック》、ヴァイル《三文オペラ》、ショスタコーヴィチ《鼻》、バルトーク《青ひげ公の城》、シェーンベルク《モーゼとアロン》、ブリテン《ねじの回転》、メシアン《アッシジの聖フランチェスコ》、リゲティ《ル・グラン・マカーブル(大いなる死者)》、グラス《浜辺のアインシュタイン》、ライヒ《ザ・ケイヴ》…タイトルだけ並べても、面白そうな雰囲気が漂ってはきませんか? 実際これらは、伝統的なオペラの延長線上にあるにせよ反旗を翻しているにせよ、20世紀的なリアリティと問題意識を有しており、観る側との心理的距離は遠くないと思う(それだけにハードな内容のものも多いので、かえって「ちょっとゴメン」という向きもあるかもしれないが)。

[Part2:森にて]

しかしながら今回は、チェコの作曲家、レオシュ・ヤナーチェク(1854~1928)の《利口な女狐の物語》をとり上げたい。1923年の作。僕が最初に買ったオペラのCD(高校2年のとき)はこれなのである。

ヤナーチェクと聴いて、ただちに思い出す方もいらっしゃるだろう。そう、数年前、村上春樹の小説『1Q84』の中に、ヤナーチェクの作品《シンフォニエッタ》が登場し、ちょっとしたブームになっていたことを。

ヤナーチェクという人は、音楽史上でもそうとうに特異な人だ。19世紀には、ドイツやオーストリア、イタリアやフランスといった当時の音楽の一等国の様式が圧政的に君臨することに反する動きが、欧州のいわゆる中心ではなかった地域から現れるようになり、これを国民楽派と総称する。ロシアのムソルグスキーやボロディン、ノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウス、チェコのスメタナやドヴォルジャークといった人々が、その代表格だろう。ポーランドのショパンだってある意味そうだ。彼らは自国の伝統的な音楽遺産(民謡とか)や文化を積極的にその音楽の中に活用し、自国のアイデンティティを高らかに表明した(ご覧の通り、当時大国によって政治的に抑圧されていた国の音楽家に多い)。むろん、すぐれた音楽家たちは単なる民族的意識の表明にとどまらない強烈な個性の発揮と音楽史への貢献を果たしており、それが前述のような人々なのだが、ヤナーチェクの個性の強烈さは際立っており、ムーヴメントとしての国民楽派からはみ出してしまうところがある。(強いて言えば近いのはムソルグスキーか?)

その音楽をひとことで説明するのはとても難しいのだが、おそらく村上春樹がらみで《シンフォニエッタ》を初めて聴いた人の多くが、「何か普通のクラシックとは違う感じ」を受けたのではないかと思う。ヤナーチェクも、他の国民楽派の作曲家同様、自国の音楽、彼の場合で言えばチェコ東部のモラヴィア地方の民謡を積極的に活用した。ただ彼が違うのは、多くの国民楽派の作曲家が、当時のヨーロッパ・クラシック音楽の規範となる形式の中に民謡を適合・融和させていったのに対し、「民謡こそ音楽の源泉」として、そこから楽曲の構造や構成を発想していったところにある。いわば「フォーマル・スーツにその地域の意匠を施すことでアイデンティティを主張する」のではなく、「素材や仕立てからその地域の衣装の特色を活かし、フォーマル・スーツの様式自体を変えてしまう」と評すべきか。具体的には、大雑把な説明になるが、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン以来の楽曲構造の典型であるソナタ形式が、複数の主題の対立・融和・止揚といった弁証法的ドラマトゥルギーに支えられているのに対し、ヤナーチェクの場合は非常に印象的な相貌の主題が、反復され、変容し、よく言われるのだがあたかも植物が成長するように楽曲が発展してゆくという独特の構成を持つ。植物の枝がどこへ伸びてゆくのか誰も予想がつかないように、僕らもヤナーチェク音楽のめくるめく変転を驚異の思いで見守っているのだが、しかしそれはいつも大地に根でつながっており、最終的には太陽や水といった、その生命に欠くことのできない存在に向かって伸びているのだなあという安心感を与えてくれる。

また、ヤナーチェクが用いるモラヴィア的な旋律は、東欧の民謡に特徴的などこか東方的な風貌をたたえており、それは僕ら極東の日本人にとっても不思議になじみやすいという印象がある。そしてヤナーチェクは、旋律の発想を得るために驚くべき「フィールドワーク」を行った。彼は市場のような人の集まる場所に頻繁にでかけてゆき、そこで語らう人々の話し言葉を採譜していったのだ。この「発話旋律」は厖大に書き留められ、ヤナーチェクは最愛の娘が病死した際にも、彼女の最後のため息まで採譜していたという。それはヤナーチェクの人間に対する愛であり、その発話旋律が彼の音楽的溶鉱炉の中で融解し、再構築され、その未聞の生命力溢れる音楽に結実するのだ。

そう、ヤナーチェクの音楽に感じるもの、それは根源的な、大地に深く根を張った生命力である。人間の喜怒哀楽も喜劇も悲劇も、まるごとそこにつながっている。その作品タイトルを並べるだけで、「何か」が伝わってこないだろうか。《おとぎ話》《草かげの小道から》《消えた男の日記》《1905年10月1日、街頭にて》《マクロプロス事件》《ブロウチェク氏の旅行》《死者の家から》《“クロイツェル・ソナタ”を読んで》《ないしょの手紙》《我らの樺の木》《娘オルガの死を悼むエレジー》《ハルファル先生》《挑戦》《霧の中で》《隊長ブーリバ》《グラゴル・ミサ》《魂のさすらい》《我々はここに立つ》…人間の生と死、自然に対しまっすぐなまなざしを注ぎ続ける音楽家の姿が、そこに浮かんではこないだろうか。僕はかつて水戸芸術館時代、専属楽団ATMアンサンブルの演奏会でヤナーチェク企画を行ったとき、その肖像にこうした作品タイトルを重ねてゆくというちらしデザインをデザイナーにお願いして創ってもらったということがある。すごいインパクトになったと思う。実は今回の文章のタイトルは、そのときの演奏会につけたサブ・タイトルを修正して転用している。

閑話休題。ヤナーチェクに関してはもうひとつ触れなければならないことがある。彼はこういう特異な個性なので作曲家としては最初まったく認められず、その創作においても非常に苦しみながらの一歩一歩で、なかなか完全な開花に至らないのだが、60歳を超えてから彼の人生を変えるとてつもない出来事が起こる。1917年、38歳も年下の人妻カミラ・シュテスロヴァーに熱烈な恋をしてしまうのだ。彼女にはその後10年間で600通にものぼる手紙を送り、熱烈な「魂の交換」が行われる。2人がどこまでの関係だったのかは立ち入らないことにしよう。これはゴシップ記事ではないのだから。だが驚くべきことに、いまどきの低劣な表現をあえて使うなら「W不倫」であるこの関係は双方のパートナーともに知るところであったというのだ。そしてヤナーチェクを死に至らしめたのは、カミラの夫も含む(!)彼女の家族と共に過ごした夏に、子どもが森で迷子になったと思い込み、探しにいって雨に打たれて肺炎になったからだった。

何と愚かしい死?愚かな恋?今だったら「大作曲家、衝撃の“老いらくW不倫”! 双方“公認”の仲? 妻ズデンカは沈黙」とかいった週刊誌の見出しが躍ってメタメタだろう。

だが彼はそれで本望だったろう。そしてヤナーチェクの最高傑作群は、間違いなくカミラとの出会いから生まれた。彼女への愛が彼の創作意欲を炎のように燃え立たせ、カミラに捧げる傑作が次々と生まれた。ことの是非は問わない。ただここに、人生と芸術の真実がある。

《利口な女狐の物語》は、そんなヤナーチェクの人間観・生命観・自然観がきわめて詩的に昇華された傑作オペラである。なんとこのオペラの主人公は、女狐ビストロウシカ。動物オペラなのだ! 当時新聞に連載されて人気だった絵物語を基に、ヤナーチェク自らが台本を書いた。ビストロウシカは「擬動物化」された女性性の象徴であり、そこにカミラが投影されていることは言うまでもない。彼女の恋と冒険、家族そして死と再生。原作はビストロウシュカの結婚で幕を閉じているが、ヤナーチェクはその先の台本を書き、死と輪廻というテーマを加え、この物語に偉大な奥行きをあたえた。「発話旋律」はオペラの隅々まで命の水を注ぎ込み、どんなディズニー・アニメでも表現できない、自然と人間が交響する感動的なオペラとなっている。

もっと詳しく書いても良いのだが、このオペラについてはかつて吉田秀和さんが『私の好きな曲』という名エッセイ集の中で書かれており、それがあまりにすばらしく本質的で、僕にはとうてい太刀打ちできない。ヤナーチェク作品だったらほかを挙げても良かったかもしれないが(他のジャンルだったら《グラゴル・ミサ》《ないしょの手紙-この弦楽四重奏曲はカミラへの最後のラヴ・レターだ―》あたりを僕はまず挙げるだろう。オペラも傑作ぞろい)、どうしてもこの連載の中で一度オペラを挙げておきたかったし、そうなるとまず聴いていただきたいのはこの作品となる。だから、少しずるいのだけれど、この作品についてはぜひ吉田さんの文章を読まれてみてください、と申し上げることにしよう。もうずいぶん長くなってしまったし。

演奏は、僕が出会ったチャールズ・マッケラス指揮の名盤を挙げておこう。マッケラスはイギリス人ながらヤナーチェクに魅せられ、その音楽のリヴァイヴァルに大きな力を果たした人だ。ブックレットには原作の絵物語も載っているし(CDの表紙もそう)、歌詞対訳もある。DVDなら最近のパリ・オペラ座の公演のものがすばらしい(Euroarts 3078388)。このオペラにつきものの問題である「着ぐるみ問題」をエレガントに解決し、かつ本質をはずしていない名舞台である。日本語字幕がないのがたいへん残念だが…。

ヤナーチェクのやったことは、少し遅れて20世紀のバルトークやコダーイ、特に前者によって強固に理論化され、普遍化された。ヤナーチェクの音楽そのものは、どこかで理論化を拒むところがある。だが、その点こそ20世紀後半以降の音楽のあり方にとって、とても示唆的だと思う。僕らを刺激してやまない、「野の知性」の音楽なのだ、これは。

Text by 矢澤孝樹

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ヤナーチェク:オペラ《利口な女狐の物語》(全曲) (デッカ UCCD3958~9)

[ディスク:1]
1. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 前奏曲
2. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第1場 「やってくるぞ、嵐が」(猟場番)
3. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第1場 「お婆さん、弾いたんですか、あなたも?」(こおろぎ、きりぎりす、蚊、蛙)
4. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第1場 「ママ!ママ、何なの、これは?」(ビストロウシカ、猟場番)
5. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第1場 パントマイム
6. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第1場 場面転換
7. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第2場 「これを見て驚いたかい、ラパーク!?」(猟場番、猟場番の女房、ビストロウシカ、ラパーク)
8. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第2場 「君、知らないだろ、何を僕たちが手に入れたか?」(ペピイーク、フランティーク、ビストロウシカ、猟場番の女房)
9. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第2場 パントマイム
10. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第2場 「君は、ぼくのようにすればよかったんだ!」(ラパーク、おんどり、めんどり、ホホルカ)
11. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第1幕 第2場 「ごらんなさい、お婆さん、どんな指導者だというの?」(ビストロウシカ、めんどり、おんどり、ホホルカ、猟場番の女房、猟場番)
12. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第1場 「ああ!」-「誰だい、喚くのは?」(ビストロウシカ、穴ぐま、森の動物たち) 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第1場 場面転換
13. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第2場 「そうですとも、きっとStraniの方が、よっぽどよくなるでしょうよ」(神父、猟場番、校長、パーセック)
14. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第2場 「家へ?この煙草好きさん、眠るためにかね?」(猟場番、パーセック) 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第2場 場面転換
15. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第3場 「どちらかな、動きの重心のせいかな」(校長)
16. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第3場 「思い出すのだ、お前は高潔な男でなくてはならない」(神父、猟場番、校長) 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第3場 場面転換 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕
17. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第4場 「神様、あの人は立派だわ!」(ビストロウシカ、男狐)
18. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第4場 「盗んだです、私!」(ビストロウシカ、男狐)
19. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第4場 「ズラトオフシェビーテクです!」(男狐、ビストロウシカ)
20. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第2幕 第4場 「もし、あなたたちが知ったとしたら」(ふくろう、かけす、ビストロウシカ、男狐、きつつき、森の声)

[ディスク:2]
1. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第1場 「俺が旅をして歩いていたら音楽をやっていた」(ハラシタ、猟場番)
2. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第1場 「走って、狐は、ターボル町へ」(子狐たち、ビストロウシカ、男狐)
3. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第1場 「どれだけ、僕たちはもう待ったのかい、子供を?」(男狐、ビストロウシカ、ハラシタ)
4. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第1場 「篭を下に置け!」(ハラシタ、ビストロウシカ) 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第1場 場面転換
5. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第2場 「それで旦那のパーセックは?」(猟場番、パースコヴァー)
6. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第2場 「もう、そんな必要はない!」(校長、パースコヴァー、猟場番) 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第2場 場面転換
7. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第3場 「言ってなかったかな、俺はあのことを?」(猟場番)
8. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第3場 「おい!こりゃ、ビストロウシカじゃないか!」(猟場番)
9. 歌劇≪利口な女狐の物語≫ 第3幕 第3場 「私は、あれじゃない」(蛙)
10. ≪利口な女狐の物語≫ 組曲 Andante
11. ≪利口な女狐の物語≫ 組曲 Andante

指揮:サー・チャールズ・マッケラス
独唱:ビストロウシカ:ルチア・ポップ(ソプラノ) 猟場番:ダリボル・イェドゥリチカ(バス) 男狐:エヴァ・ランドヴァー(メゾ・ソプラノ) 穴ぐま/神父:リハルト・ノヴァーク(バス) 校長/蚊:ヴラジミール・クレイチーク(テノール) ハラシタ:ヴァーツラフ・ズィーテク(バリトン) 猟場番の女房/ふくろう:エヴァ・ジグムンドヴァー(ソプラノ) ラパーク:リブシェ・マーロヴァー(メゾ・ソプラノ) パーセック:ベノ・ブラフト(テノール)、他
合唱:ウィーン国立歌劇場合唱団
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

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投稿者: : 2013年2月11日 投稿先 1.Classic(クラシック)

 

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