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燃え尽きるまで歌い続ける~シューマン:幻想曲 ハ長調 作品17

12 11月

精霊の主題による変奏曲 シューマン・リサイタル / アンドラーシュ・シフ
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 水戸芸術館に勤め始めて、僕は学芸員として、「自分が好きな音楽」以外の音楽も、人に紹介する必要性に迫られる。なにしろここまでの連載をご覧の通り20歳の頃の僕は「クラシック音楽」に関しては古楽と近・現代に嗜好が偏り、古典・ロマン派にはまるで関心がないという、著しい偏食児童だった。ところがコンサートホールで奏でられる音楽ときたら、まさに僕が遠ざけていた古典・ロマン派の音楽が中心なのだから! 覚悟を決めて向かい合うしかない。 

 そうやって「義務」としてこの時代の音楽を聴き始めると、そりゃあ至高の名曲ぞろいなのだから目も開かれてくる。やっぱりすごいよな、と思う。だが、こうも思ったのだ。「ロマン派って病んでるよな」と。多くの人に愛されるロマン派の大作曲家は、みなどこか歪んでいないか? シューベルトは夢想の果てに理想郷と虚無の間で引き裂かれている。ショパンの密室的メランコリアは、どこにも出口がない。ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーは誇大妄想三巨匠。ブラームスは古典的構造と未来につながる斬新さの一方で、救いようのない孤独の中を堂々めぐりしている。チャイコフスキーの、人生の重さに打ちのめされそうな叫び。ムソルグスキー、デュパルク、ヴォルフの文字通りの狂気。神への絶対的帰依と存在論的不安とが交錯するブルックナー。個と世界とが異常に巨大化したヴィジョンの中で常に最終戦争のごとく格闘しているマーラー…。こんなまとめ方は乱暴で一面的だということは重々承知しているけれど、「音響」に惹かれて聴いていた少年時代以来しばらく離れていたこれらの音楽をあらためて聴くと、自壊しそうなまでの個の重みと、それをぎりぎりのところで創造性に転化させる技術の冴えが、かくも危うくせめぎあっている音楽だったのか、と驚くばかりだった。「なぜそうなのか」はそのときはわかっていなかったし、その理由についてはいずれこの連載で、ロマン派に先立つ世代のモーツァルトやベートーヴェンが登場する時に書くことになるだろう(元からのクラシック好きの方なら先刻ご存知のことかもしれないが)。

 じゃあ、さぞかし受け容れがたかっただろうって? ところが、その反対である。僕は社会人として歩む中で、自分の中の感情をどう解き放ち、手なづけるかの格闘を、以前よりもいっそうエネルギーをかけて行っていた。要するに、20代の若者なら、自己と他者との関係をもっとも切実かつ深刻に意識させられる関係、端的に言うなら恋愛という関係性において。それまで、向き合えない弱さで自滅したり、そこから投げやりに安易な道に走ったりしていた悪循環をなんとか断ち切ろうともがいていたのが20代の大半だった。そんな話をここでしても仕方がないし、矢澤の恋バナなんて誰も聞きたくないだろうから詳述しないが、間違いなく学んだのは「踏み出せば失敗しても反省がある。踏み出しきれなかったらそこには後悔があるだけ。ただし、踏み出すことも踏み出さないことも相手を幸福にすることとイコールではない。それを可能にするのは決意と覚悟と思いやり。それでも、うまくゆくかはわからない」。そんな基本的なことを矢澤に学ばせるために鬱陶しい思いをしたり傷ついたりした女性の方々には、ただひたすらお詫びと感謝あるのみ。

 どうも話が脱線した。要は、そんな自分にようやくロマン派が、リアルに響いてきたということだ。その切実な、感情の音楽が。

 その中でも、もっとも強烈に僕の心をとらえていたのは、間違いなくローベルト・シューマン(1810~1856)ということになるだろう。シューマンについてはご存知の方も多いと思うが、天才ピアニスト/作曲家としてデヴューしたが、過度の練習により指を痛めて前者の道を断念、作曲家の道を歩む中で恩師の娘クララ・ヴィークと熱烈な恋愛関係に陥り、恩師の激しい妨害を乗り越えてクララと結婚するも、徐々に精神の不安に苛まれてゆき、最後は錯乱の末自殺未遂を起こし、精神病院で生涯を閉じるという劇的な生涯を送った作曲家だ。

 シューマンの音楽はその人生の季節に応じてさまざまに表情を変える。クララと結婚するまでの若き日は、ピアノ曲の傑作が集中している。《ダヴィッド同盟舞曲集》《謝肉祭》《子供の情景》《クライスレリアーナ》…それはもう、独得な発想のものばかりで、古典的なピアノ・ソナタや変奏曲もあるにはあるが、なんといっても性格の極端に異なる小品をひとつの大きな作品に編み上げ、その中に統一モティーフや文学的暗示をちりばめてゆく、天才的な発想力と詩的想念の飛翔に感嘆させられる。注意したいのは、ピアノという「独りで弾ける」楽器のための「言葉を音楽の下に隠し持った」音楽であるということ。それはしばしば、クララとの愛の苦しみ(やそれ以前の恋愛体験)を暗示し、反映している。

 クララと結婚してからはまず、《詩人の恋》《リーダークライス》《女の愛と生涯》といった歌曲集が奔流のように生み出される。まるで、封印していた言葉が堰を切ってあふれ出たかのように。その後には、交響曲と室内楽曲が次々生み出される。イマジネーションの乱舞を古典的な形式の中で手なづける音楽であり、独りでなく、集団で奏でられる音楽である。やがてオラトリオ《楽園とペリ》、オペラ《ゲノフェーファ》、そして《ファウストの情景》のような壮大な声楽作品も生み出され、シューマンのヴィジョンは果てしなく広がってゆく。だがその一方で、精神的不調がしばしばシューマンを襲うようになり、晩期の《レクイエム》《ヴァイオリン・ソナタ第1番&第2番》《チェロ協奏曲》《暁の歌》のような、言い知れぬ暗い色調が忘れ難い傑作を残したあと、シューマンの精神はついに破綻する。若い頃に患った梅毒が発病したという説もあるが、たとえそうだとしても、その天かける詩的想像力とパッションの激しさが、イカロスの翼のように自らを焼き尽くした、という印象をぬぐい去ることはできない。

 シューマンで挙げたい曲はたくさんあるが、ここでは僕がもっともはまっていたピアノ曲、《幻想曲 ハ長調》作品17を挙げておく。
 
 これは1838年に書かれた、実質的にはピアノ・ソナタといっても良い、3楽章からなる大曲。ベートーヴェンに捧げる大ソナタとして当初構想されたが、当時もっとも絶望的な状況にあったクララとの恋愛がそこに強く反映されていることで、曲はより個人的な色彩を強めることになった。

 「どこまでも幻想的、情熱的に演奏すること」と記された第1楽章、渦巻く情念のような伴奏音型の中から、一度聴いたら忘れられない強烈な訴求力を持ったハ長調の主題が輝かしく姿を現す。憧れと激しい愛をそのまま形にしたような。だがその主題は、次の瞬間短調に姿を転じ、狂おしく悲劇的な表情を見せる。希望と絶望に引き裂かれる愛が、こんなに熱烈に表現された音楽がそれまでにあったろうか。曲はソナタ形式とはいえ、変転に変転をくり返し、新しい悲劇的な主題も加わる。最後に、この曲が当初ベートーヴェンに捧げられたということを思い出させるように、その歌曲《遥かなる恋人に寄す》の旋律が引用され、感動的に締めくくられる。しかし、この引用がクララへのメッセージであることは間違いない。第2楽章は「中庸な速さで。まったくもってエネルギッシュに」と記され、凱旋するような行進曲の主題で開始。それは異なる性格の主題をはさみながら精力を増し、最後にはたたみかけるような頂点を築く。そして第3楽章「ゆっくりと弾き進め、どんな時でも静けさをもって」は、どこまでも続く夢と祈りが一体になったかのような歌。曲は最後にほんのわずか昂揚し、ゆらめく炎が消えるように静かに終わる。

 ハ長調という明朗な調で書かれながら、痛切な痛みに満ちた第1楽章で始まるこの曲は、第2楽章、第3楽章と解放に向かってゆくように見える。しかし当時のシューマンの心境を考えれば、第2楽章以降は、「あり得べき(しかし絶望的な)愛の成就に向けての闘争と満ち足りた勝利」の“幻想”と察するべきだろう。ここにはない何かを憧憬し、夢見ること。それがこの曲を《幻想曲(ファンタジー)》と名づける直接的な契機になったように思える。

 実はこの曲、最初に書かれた版では、第3楽章の最後にもう一度《遥かなる恋人に寄す》の旋律が引用されていた。クララへの想いを、諦めることなくもう一度確かめるかのように。だが、その後シューマンはこの部分を破棄し、別のエンディングにしてしまう。出版稿はこの版だが、それが出版された1839年には、シューマンはクララと共に訴訟を起こすという形で希望に向けての闘争を始めていた。彼は、あえて終結部をオープン・エンドのようにすることで、2人の愛を「完結」させずに未来に向かって開こうとしていたのかもしれない。そしてそれは、シューマンが、クララとの結婚後も求め、たどり着こうとした「何か」に向かって開かれているようにも思える。その「何か」とは何か、わからない。とりあえずの言葉を与えるとしたら「永遠」と呼ばれるべきなのかもしれない。

 演奏は、封印された初稿と改訂稿の両方を収めたアンドラーシュ・シフのものをお勧めしておきたい。初めて聴く初稿のエンディングは、とても感動的だ。しかし改訂稿も、前述のように必然として短縮されたのだと思える。その双方を、聴き比べることができる。そしてそれだけでなく、シューマンのもっている危うさと狂気に近い情熱に、繊細に迫ったすばらしい演奏だと思う。ちなみにこの2枚組は、作品2の《蝶々》に始まり、《ピアノ・ソナタ第1番》《子供の情景》《幻想曲》《森の情景》、そしてシューマンの精神が完全に破綻する直前に、幻聴に苦しみながら「天使が歌ってくれた」という主題を基に書いた最後の作品、《精霊の主題による変奏曲》まで、シューマンの生涯をたどるようなプログラムで構成されている。

 僕は今、社会的な役割を与えられ、家族や地域社会と共に生きている。あの危険な時代は過ぎ去ったのだろうか。シューマンが聴こえる時、僕の閾下の情念は騒ぎ立ち、存在を揺さぶる。そして「何か」に向けて魂は危険なまでの飛翔を試みようとする。自らを焼き尽そうという危険も顧みずに。
 シューマンとは、そんな音楽なのだ。

 最後に、《幻想曲》の冒頭にシューマンが掲げたシュレーゲルの《しげみ》という詩の一節を引用しておこう。「調べ」はこの場合、クララのことを指すという。もちろんそうだろう。だが、彼女をその一部として含むはるかに大きな「何か」であるようにも思えてならない。

 ~鳴り響くあらゆる音をつらぬき
  色とりどりの大地の夢のなか
  かすかな調べがひとつ聴こえる、
  ひそやかに耳かたむける人のため。~

Text by 矢澤孝樹

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精霊の主題による変奏曲 シューマン・リサイタル / アンドラーシュ・シフ (ECM UCCE-7517/8)

【収録曲】

[ディスク:1]
1. 蝶々 作品2 Introduzione.Moderato – 1.
2. 蝶々 作品2 2.Prestissimo
3. 蝶々 作品2 3.
4. 蝶々 作品2 4.Presto
5. 蝶々 作品2 5.
6. 蝶々 作品2 6.
7. 蝶々 作品2 7.Semplice
8. 蝶々 作品2 8.
9. 蝶々 作品2 9.Prestissimo
10. 蝶々 作品2 10.Vivo
11. 蝶々 作品2 11.
12. 蝶々 作品2 12.Finale
13. ピアノ・ソナタ 第1番 嬰ヘ短調 作品11 第1楽章:Introduzione.Un poco Adagio-Allegro vivace
14. ピアノ・ソナタ 第1番 嬰ヘ短調 作品11 第2楽章:Aria
15. ピアノ・ソナタ 第1番 嬰ヘ短調 作品11 第3楽章:Scherzo e Intermezzo.Allegrissimo-Lento
16. ピアノ・ソナタ 第1番 嬰ヘ短調 作品11 第4楽章:Finale.Allegro un poco maestoso
17. 子供の情景 作品15 第1曲:見知らぬ国より
18. 子供の情景 作品15 第2曲:珍しいお話
19. 子供の情景 作品15 第3曲:鬼ごっこ
20. 子供の情景 作品15 第4曲:おねだり
21. 子供の情景 作品15 第5曲:十分に幸せ
22. 子供の情景 作品15 第6曲:大事件
23. 子供の情景 作品15 第7曲:トロイメライ
24. 子供の情景 作品15 第8曲:炉ばたで
25. 子供の情景 作品15 第9曲:竹馬の騎手
26. 子供の情景 作品15 第10曲:まじめすぎるくらいに
27. 子供の情景 作品15 第11曲:怖がらせ
28. 子供の情景 作品15 第12曲:眠りに入る子供
29. 子供の情景 作品15 第13曲:詩人は語る

[ディスク:2]
1. 幻想曲 ハ長調 作品17 第1楽章:完全に幻想的、そして情熱的に演奏すること
2. 幻想曲 ハ長調 作品17 第2楽章:中庸に、まったく精力的に
3. 幻想曲 ハ長調 作品17 第3楽章:ゆっくりと、静かに進めること (初稿)
4. 森の情景 作品82 森の入口
5. 森の情景 作品82 待ち伏せる狩人
6. 森の情景 作品82 淋しい花々
7. 森の情景 作品82 呪われた場所
8. 森の情景 作品82 こころよい風景
9. 森の情景 作品82 旅宿
10. 森の情景 作品82 予言の鳥
11. 森の情景 作品82 狩りの歌
12. 森の情景 作品82 別れ
13. 精霊の主題による変奏曲 Tema.Leise,innig
14. 精霊の主題による変奏曲 Var.I
15. 精霊の主題による変奏曲 Var.II.Canonisch
16. 精霊の主題による変奏曲 Var.III.Etwas belebter
17. 精霊の主題による変奏曲 Var.IV
18. 精霊の主題による変奏曲 Var.V
19. 幻想曲 ハ長調 作品17 第3楽章:ゆっくりと、静かに進めること (最終稿)

【演奏】
ピアノ:アンドラーシュ・シフ

精霊の主題による変奏曲 シューマン・リサイタル / アンドラーシュ・シフ
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投稿者: : 2012年11月12日 投稿先 1.Classic(クラシック)

 

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